つくりおき.il

つくっておくということをしています

脱構築カレーおき

ではカレーをやっていきましょう。

 

 

と言いたいところですが,冷蔵庫にはまだ先日作ったカレー

tsukurioki-il.hatenablog.comのつくりおきがあります。したがって今日の夕ご飯はそのつくりおきをレンジでチンしてご飯と一緒に食べるという行いです。ところがそれはすでに日曜日にも行われており,既にここでもとりあげています:

tsukurioki-il.hatenablog.comということは,このままでは日曜日のこの記事と全く同じになってしまいます。

それはブログ的にはあまりよくありません。

 

 

というわけで日曜日と同じことを,再びやっていきましょう。

 

 

 

 

これはカレーですが,チーズがかけられています。

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近代西欧における形而上学実存主義の伝統に立脚していたため,二項対立の前提の中で優劣あるいは止揚を試みるという階層的構造が存在しました。したがって,構造を転覆させることそれ自体のみでは既存の構造を分解するにとどまり,二項に取り込むことをされなかったもの,すなわち敷延に対するまなざしは失われてしまいます。

 

ここに二項対立という構造自体を棄却する必要が生じます。ところが,実存の範疇からの脱却を目的とした思惟の要請として,棄却それ自体も要素に基づかない形で行われなければなりません。すなわち構造自体が自発的に自身を分解することが求められているのです。その様子がこちらです。

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すなわち構造自体に自己触媒作用を見出す行為それ自体の構造に着目する必要があるのです。しかしその必要性自体もやはり階層の秩序という表象の中で現象しているのであり,敷延は未だに視点から逃れてしまっています。

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これは米を茹でる様子を示していますが,依然として米と水の二項対立の範疇に取り込まれてしまっています。それは食塩を入れることによってすら解消されません。事象の表層において階層が存在するというのは実存主義の形而下的限界であり,つまり古典物理学に基づいて器としての物質を理解しようとする行為の束縛される文脈なのです。

我々はもはや形而上の概念を取り込む必要に迫られ,つまり米を茹でる様子自体に内在されている形相因や目的因といった形而上的な価値を取り扱う行為を,思推している人間の精神に獲得する段階に来ています。

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以上のように,実存主義からの脱却を試みて構成された構造主義それ自体も,要素を排除した先にある構造それすらをも要素と見なすことによって実存主義に回収されてしまうという危機に直面してしまっています。すなわち構造主義自体が構造主義を内部から棄却しています。思想のこのようなアポトーシス作用を「脱構築」として構造化したのがデリダあるいはハイデガーの思想ですが,その思想自体もやはり構造に基づいており,従って構造主義の回収と同様に実存主義,ひいては形而下の議論へと回収されてしまいます。

 

構造主義の立場からは,カレーは F3 × H(F1 + F2) であり,すなわちご飯とカレーと対立関係においてはご飯にカレーをかけることによってのみカレーは現象しえます。ここでカレーとご飯には明示的な階層関係が存在します。ところが脱構築の視座は,このような古典的階層関係が自律的に解体されることを要求しているのです。そのためにはまずご飯をカレーにかける,という行為が必要になります。

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ところが,そのような行為の範疇においてもカレーとご飯の間には明示的な階層関係が存在してしまっており,構造は解消されません。カレー構造がカレー構造自体を自律的に解体するためには,カレーは形而上的にはカレーであるというまなざしを獲得し,そのまなざしがまなざし自体を解体する,といった,ありかたの連続的な問い,すなわち「やっていき」の精神が必要とされているのです。

 

より深く学ぶための参考文献

tsukurioki.hatenablog.com